カッコだけに憧れてしまう
2015/11/02
大学生の頃、とても好きだった経営学の先生がいた。
少し前にピーター・ドラッガーがとても流行ったけど、僕が初めてドラッガーの名前を知ったのは先生の授業だった。先生が熱く語るマネジメントの話は人間論のようで飽きずに聴けた。
その先生にはいくつか持ちネタみたいのがあって、ひとつに「最近の若者は整髪料で髪の毛をツンツンさせてる」と話し始めるやつがあった。
「あんなのはカッコだけ。整髪料なんかつけなくても怒ればいいんですよ。怒れば自然に髪の毛は逆立つんだから。怒りなさい。」と、前に座ってる学生に「怒れ怒れ」とけしかけたりする。
そして「まあ、私の場合はどんなに怒っても立つほど残ってないけど」と言って自分の頭を指すのがお決まりだった。
その時は「先生、また無茶苦茶なこといってるな」と何も考えずに笑っていた。
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何でこんなことを急に思い出したかというと、この記事を読んだからだ。
僕もこの質問者さんとまったく同じように「コンセプトカーのデザインで何故売らないのだろう?」といつも思っていた。
こんな事情も知らずにコンセプトカーと市販車を比べて「もっとかっこ良くできないもんかなあ」と無邪気に思っていたなんて恥ずかしい。
とくに下のくだりは車に限らず、いろんなところで思い当たる節がある。
コンセプトカーより市販モデルがカッコ悪いと感じたら、それはデザインがまだ甘い、ということでもあります。
単にスリークにしたり、単に全高を低く横幅を広くしたり、つまりは単に速そうなフォルムにするだけで、クルマはカッコよく見えるのです。
(中略)
真にすばらしいデザインは、機能を満たした上で美しいのです。
確かに、確かにそうだ。
かっこいいもの、見た目がいいものには方式みたいなものがある。
他の事情に関係なくその方式をなぞることができるなら、見栄えを良くするのはそれほど難しくないはずだ。
でもそれによって、その形に至った意味や本来持つべき機能が抜け落ちてしまったら逆に格好悪いどころか、話にならない。それこそ「エンジンが積めないクルマ」と一緒だ。
最初の話に戻ると、反骨する気持ちや怒りなどがなさそうなのに髪の毛だけが逆立っている僕らが、先生には本気で変に見えたのだろう。
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見た目だけとらわれて安易に憧れる癖、いい加減おしたい。
とか思ってるんだけど、編集部厳選!美人コンパニオン特集『東京モーターショー2015』とかいう記事があると、ついみちゃうんだよなー。